■RED AND BLACK extra■舞台と本の日記 -2ページ目

『神の火』心の奥で燃えたぎるもの

今日は、演劇とはまったく関係ない本の話です。
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少年が家族を手にかけたり、通っている学校に爆弾を投げたりと、聞いて絶句するような事件が立て続けに起こっている。ニュースを聞きながら、ある作家の名前を思い浮かべていた。高村薫氏は、こんな事件が続く現在を、どう見ているだろう。

今日、原発の機密資料がウィルスによってネット上に流出したという報道を見て、高村氏の小説『神の火』が現実になったような身震いを覚えた。これは、かつて東西をまたぐスパイだった元・原発技術者の男を中心に、核開発の鍵を握る秘密資料をめぐって、国際諜報機関、政治家、運動家、チェルノブイリ事故の遺族、その周辺の人たちが翻弄される様を描いた長編。クライマックスは、主人公が幼なじみと二人で、原子力発電所を襲撃するシーンだ。

彼らが無謀な突入を図った動機を、一言で表すのはとても難しい。でも読み終わると、なぜか想像できるのだ。もの言わぬ圧力によって長年がまんを強いられてきた、やり場のない憤怒が、無名の個人を社会への復讐へと突き動かしたのではなかろうか。


その姿が、「おとなしい」「事件を起こすようには見えなかった」と言われる少年たちと、重なる。

普段は平穏な社会生活を営みながら、面の皮一枚はがしたところでは、激しい情念が爆発寸前で沸騰している…。程度の差はあれ、どんな人にも、たぶん思い当たるところがあるだろう。着火するのは、あっという間のことだ。


いうまでもなく、実際に起きた原発資料の流出と、少年たちの事件は直接関係していない。だけど、日常生活の死角で、知らないうちに、惨劇の種が育っているという点は、共通している。

高村氏の小説は、市井の人のさまざまな心情に、同じ目の高さで寄り添っている。そして、身近にあるけれど見えない何か、聞こえない声の存在に気が付いているかと、読む者に問い掛けてくる。


神の火  『神の火』上・下 高村薫・著 新潮文庫

ネイルについて考える

ヘドウィグを観て、最近怠けていた美容の心を刺激され、ネイルサロンに行ってきました。

え? 空しい努力だって? …いいのよっ、気持ちが大事なのよ! (誰に向かって主張してるんだか)

両手の爪を整えて、磨いて、甘皮もきれいにしてもらって、カラーリングと、ちょっとだけアート。美しい仕上がりを見て、ぼろぼろぎざぎざの爪で平気だった自分を反省しました。ヘドちゃん、ありがとうよ!


舞台で観たヘドウィグの爪は、衣装に比べて案外地味でした。つやつやの黒で、長さはそれほどでもない。この画像は、去年の舞台写真ですが、今回も同じような感じだったと思います。全体のバランスを考えれば、この程度がいいのかな。

(下は、今年のパンフレットを撮影したもの)

へどのつめ

ネイルで思い出す舞台といえば、今年上演された宝塚月組の『エリザベート』でしょう。ポスター観たとき、主役である黄泉の帝王・トート閣下の長ーいネイルに目が釘付けになってしまいました。

とーとねいる


舞台写真では、もう少し短めですが、マットな黒の先端に銀のラメがまぶしてあるようです。もっと長い爪だったシーンもあった気がするのですが、はっきり思い出せません。「我ら息絶えし者ども」~「私を燃やす愛」のあたりで長いつけ爪をしていた、なんてことはないかな。気のせいだったら、ごめんなさい。

トート閣下の指先、確かに美しいのですが、私はそこに現実味を感じてしまい、実は残念でした。整いすぎているせいか、どうしても「ネイルサロンでお手入れ励んでます!」という印象がぬぐえなかったのです。黄泉の国に、そんなものはないよねえ、やっぱり。小さいパーツといえど、こうやって舞台の印象に大きく影響することがあるから、あなどれません。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(3)急いでメイクアップ♪

♪ 急いでメイクアップ

   かけよう 8トラック

   仕上げにウイッグのせて ♪ (うろ覚えなので歌詞間違えているかも)


う~ このフレーズ思い出すと、また観にいきたくなるよ。

でも実は、不安だったのである。初日前に、下のニュースで三上ヘドの顔写真を見たときは…。「あれ、何か顔が黒いけど… おしろいを忘れちゃったのかな」と、真面目に考え込んだものだ。

(サンスポ.comより、公開稽古の記事)

 “原形”は?三上博史、全身全霊で「ヘドウィグ」

http://www.sanspo.com/geino/top/gt200506/gt2005061606.html


劇場で目の当たりにした今年のヘドウィグは、初演のときよりもメイクに気合いを感じた。確かに、「分かりやすいキレイさ」は弱くなっているかもしれない。今年は暗めの肌色に、真っ白い爆発ロングヘア、顔に光る石をちりばめた姿でご登場。女装なんだけど、「うわ~ 本当の女よりきれいね~」と素直に感嘆したくなるタイプのものとは違った。今回のビジュアルはかなり濃密で、「うっ」と引いてしまうくらいのクドさを観客にぶつけていたような気がした。


それなのに、観ていてなんだか満たされた気持ちがした。正直言うと、メイクや衣装の細部はどうでもいいのである。ただ、その人の魂というか念というか、「本気」の度合いが、外見に現れているのを見るのが好きなのだ。


三上博史さんが、去年とメイクや衣装を変えてきた意図について、くわしいところは分からない。だけど、かなりこだわりを持っているのだろうなというのは、よく伝わってくる。彼のヘドウィグを見ていて、「上手に作りこんでいるな」と思うところは全然なかった。だって、三上さんの身体の一部のように感じるから。劇中で、毛皮のコートを指して、イツァークに「ほら、アタシの皮膚を取ってよ。皮膚よ!」と言うシーンがあったと思うけど、まさにそんなふうに、派手な装いがなじんでいる。


この作品を見て、自分はなんで舞台の衣装やメイクというものに心ひかれるのか、改めて思い起こしてみた。

以前、知り合いが「誰に会うのでもないのに、なんでおしゃれするの?」と聞いてきたことがある。「この人には、分からないんだなあ…」と、私はちょっとがっかりした。化粧したり着飾ったりするときに、心の中でぐるぐる渦巻くもの。一塗りするごとに、一筆描くごとに、自分の内面をさらけだして格闘するような気持ち…。ま、鏡を見ながらこんな暗いこと考える人はいないかな? ともかく、「飾ること」というのは同時に、「むき出しの姿を見つめること」と言えるのではないだろうか。


で、三上ヘドウィグの外見を復習しようと思ったのに、パンフレットには満足な写真がないよ…。アップの写真は数点あるけど、ザラザラの画質なので、じっくり研究ができない。全体的におしゃれな感じに編集してあるのは分かるけど、ヘアメイク・衣装好きの心をくすぐるページもくださいませ。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2)さなぎが蝶に

去年に続き2回目の観劇ということでよかったのは、物語のラスト直前に、イツァークがヘドウィグからウイッグをかぶせてもらったときの表情を見逃さずに済んだこと。初めて観る人も、ここはぜひチェックしてほしいな。


イツァークというのは、ヘドウィグが言うところの「従順な下僕」。ヘドウィグのバンドが以前、バルカン半島付近のどこかの国(どこでしたっけ? 思い出せない)へ巡業に出掛けたとき、前座として呼ばれたのが、地元で有名なドラァグクイーンのイツァークだった。ヘドウィグは、イツァークが二度とウイッグをかぶらないことを条件に、彼を伴侶とする。つまりイツァークは、自分を無にして相手に尽くす道を選んだのだ。


でもヘドウィグは、トミーとの過去を自分の中で受け入れることができたとき、イツァークにプラチナブロンドのウイッグをかぶせた。そのときのイツァークの驚いた表情っていったらなかった。喜び、戸惑い、いろんな気持ちを顔に浮かべたあと、ふとステージから走り去る。


そして最後、さなぎが蝶々になったように… んん、未見の人のためにここはお楽しみにしておこう(こう書いたら分かるか…)。去年と比べて、きらびやかさが控えめになってたのがちょっと残念だけど、自分らしさを取り戻してイキイキと歩く彼(彼女?)は、観ていてこっちもうれしくなった。


明日は、この舞台で大好きな衣装とメイクのこと。


『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(1)決めるのはアタシ!

(あらすじは、こんな感じ)
ヘドウィグが少年時代をすごしたのは、壁があったころの東ドイツ。ママに「人間は昔、二人で一人だったけど、切り離されてしまったのよ」という話を聞かされてからというもの、自分の「失われたカタワレ」はどんな人だろうと、ずっと考えながら育った。一緒になって、完璧な自分になりたいけど、それってどんな感じ…?

「カタワレ」らしき男性と出会ったヘドウィグは、結婚してアメリカに渡るために性転換手術を受けるが、ミスによって股間に「怒りの1インチ」が残ってしまう。ほどなく離婚。その後、心を交わすようになった17歳の少年トミーは、彼の心身すべてを受け入れることができず、ヘドウィグが教えたロックの曲を持って逃げ出した。捨てられたヘドウィグは自分のバンド「アングリーインチ」を率い、ロックスターになったトミーのコンサート会場を追いかけていく。裏切られた絶望から、ヘドウィグはまたよみがえることができるのか…。


(感想ここから)
待ってました! 
去年の初演から1年。感慨は、ちっとも弱くなってなかった。いや、話を知っている分、前よりもヘドウィグと彼の新しい伴侶イツァークの気持ちに近付いて観ることができたかもしれない。今年も彼らに会えて、本当にうれしい。


「おまえらが気に入っても、気に入らなくても、ヘドウィグ!」
オープニングナンバーの「Tear Me Down」で客席がうねりだしたとたん、「ああ思い出した!」と、興奮がよみがえってきた。初演観て以来、一度も聞き直していないのに、耳の奥に記憶が残っていたのだろうか。「(生き方を決めるのは)橋でもなく、壁でもなく、アタシ!」という歌詞に、心が共鳴した。このミュージカルは、世間の目と自分の生き方との間に溝を感じながらも、プライドを失わないヘドウィグの叫びそのもの。このテーマに、自分はとても惹かれる。


前半は、三上博史さん演じるヘドウィグのパワーが炸裂する歌が続く。独特の女装で熱唱する姿には、初演と同じく引き込まれた。でも今回もっと心に残ったのは、中盤以降、トミーが出て行った様子を語ったあと、彼が深く絶望する様子である。


性転換した過去を持つ自分を、恋人は受け入れてくれなかった。それどころか、教えた曲を奪って一人でスターになった…。ヘドウィグは、長い時間沈黙する。やがて姿が見えなくなり、舞台上で緊迫した空気が張り裂けそうになったとき、それまで身につけていた派手な衣装やウイッグを取り払って、上半身裸になった彼が現れた。


身も心もむき出しにして、昔トミーに作ってあげたバラード「汚れた街」を歌い上げる三上ヘドウィグ。いや、これはトミーなのか? 混沌とした存在に見えるけど、観客に向けた視線はまっすぐ確かだ。「信じてほしい、君は完全だと」と、歌詞をかみしめるように語りかけてくる。自分の生き方は、まず自分が認めてあげなきゃ。そのメッセージ、しっかり客席まで届いた。


その気持ちがあってこそ、他人のことを認める余裕も生まれるのだろう。最近いらいらしていた仕事相手の顔が、このときちらりと脳裏をよぎった。


これに先立つシーンでヘドウィグは、「笑ってないと、泣いちゃうのよ」とつぶやきながら、手術を勧めたママや、最初の結婚相手や、トミーによって、自分の心が少しずつ失われていったと語る。執念をかけてトミーのコンサートツアーを追い掛け回す姿は、確かにちょっとストーカーじみている。だけど、そうやってもがいた結果、自分の生き方に妥協しない強さと、それを受け入れてくれる伴侶を得たヘドウィグに、私は力をもらった。やっぱり、観てよかったな。


感想はまだ続く。イツァークのことを書こう。 

トニー賞授賞式の放送

今日、NHK BS2で放送されます。

再構成・編集して放送だそうです。


第59回トニー賞授賞式

(予定)

6月18日(土) 後7:30~10:00

ゲスト(解説) 立川志の輔,  渡辺祥子,  山本耕史

私は観られないので残念。


次の更新は明日19日夜になります。

NO DAY BUT TODAY…が聞きたい

上でお知らせしているように、今夜0時からメンテナンスのため閲覧ができなくなります。次の更新は、20日(月)になります。   変更になりました。閲覧はいつもどおり可能です。(アメーバblogメンテナンスが日程延長になったため)
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昨夜は、BWミュージカルのドキュメンタリー番組(NHK BS2)が最終回でした。ちゃんと最後まで観ました。

80年代以降の動きということで、おなじみのキャメロン・マッキントッシュやアンドリュー・ロイド=ウエーバーといった作り手が取り上げられました。伝統的なミュージカル音楽が人々の嗜好と合わなくなってきたこと、膨大な制作費がかかるなかで大手資本がリスクをとりたがらなくなっていること、など現在のBWが抱える問題をどう考えるか、いろんな人が答えてました。

キャメロン・マッキントッシュが言うには、ニューヨークである程度の規模のミュージカルを制作するのには1200万ドル以上必要なんだそうです。13億円くらいってこと? ロンドンでならそこまでかからないそうですが、やっぱりBWで成功しないと意味がないというようなことを言ってました。

昨日映った作品は、さすがに知っているものばかり。「レ・ミゼラブル」の「民衆の歌」をBGMに、同作品の「ABCカフェ(学生たちが街へ出ていくところ)」「ワンデイモア(コンサート版だったのかな? バルジャンとコゼットが立っていた)」のほか、「ミス・サイゴン」から「Sun and Moon」の歌のレッスン風景とヘリコプターのシーン、「オペラ座の怪人」、「キャッツ」などの舞台映像が流れました。

中でも「レント」のジョナサン・ラーソンについては、時間を割いてエピソードが語られていました。
レント、また観たいな… ぜひ日本語版で。「NO DAY BUT TODAY」この言葉がひしひしと沁みるのは、内容のリアリティゆえだと思うからです。

独りで観に行きたい舞台

普通は、気の合う人と一緒のほうがいいのです。幕間や帰り道であれこれ感想を言い合えば、観劇も一粒で二度、三度と楽しいですもんね。


でも例外の作品が一つあります。「LOVE LETTERS 」です。


これは、男女の役者さんがカップルになって戯曲を朗読するだけの舞台です。動いたり歌ったりしません。内容は、アンディとメリッサという幼ななじみの二人が、大人になってもずっとやりとりしていたたくさんの手紙を読み上げるというもの。 ……う、こう書いてる今も目の奥が熱くなってくる。


これまでに、いろんな役者さんが演じています。私は去年、戸井勝海さんと横山智佐さんの組み合わせで観ました。2幕の途中から、涙がぼろぼろ止まりません。後ろのほうだったし、独りだったし、もういいやと思って遠慮なく泣きながら話に浸らせていただきました。戸井さんも終わったあと、本を持ったまま涙ぬぐってました。


誰かと一緒だったら、きっと恥ずかしくて、物語に没頭できなかったと思います。ほどほどに泣いて、ほどほどの感想しか持たなかったでしょう。知らない人ばかりの空間で観たからこそ、忘れられない体験になりました。


この作品の良さは疑う余地がないのですが、あんまりにも心の深いところを突かれたので、この後、また観る気力がなかなかわいてきませんでした。

でも今度の8月公演のキャスト、ちょっと興味があるな…。夏の夜、また涙の海にざぶざぶ浸ってくることになりそうです。

市村正親さんのナレーション

【重くてごめんなさい】

またアメーバblog重かったですね。ごめんなさい。昨夜は記事が1時間もアップされなかったよーう(だからこうして朝更新)。この週末にシステムのバージョンアップをするそうですが、それでも状況が改善されないようだったら、blogの引越しも考えます。

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月曜から始まった、BWミュージカルの歴史をつづるドキュメンタリー番組(NHK BS2) 。一応、毎晩観ています。

「一応」というのは、途中で睡魔に負けてしまうので…。最後まで観た回がないのです。もったいない。


番組の名誉のために申し上げますと、内容はなかなかそそります。事情に疎い私でも名前を知っているような、アメリカの有名な舞台人がぞろぞろ出てきて、ミュージカル創生期のエピソードを語ってくれます。そうそう、この間はガーシュインに口説かれたという女優さんが思い出話をしていたっけ。「新しい曲のために、家に来て手伝ってくれないか」と誘われたもんだから、大真面目に仕事のつもりで出掛けたのに…と笑っていました。


古い映像を観て、「あ! これが『ゲストにはフレッド・アステア♪ おぉ、アメリカン・ドリーム!』と歌われた本人ね」と注目してみたり。


この番組で、もう一ついいところは、市村正親さんがナレーターを務めていることです。舞台での声しか知らないので、音量控えめでやわらかく発している言葉が新鮮でした。その、耳に心地よいこと。話声だけに「俳優・市村正親」の表現力がぎゅっと凝縮されている感じ。これもまた、ぜいたくな味わいです。

blogが重くなっていました

昨夜は、アメーバblog全体が重くなっていて、閲覧しにくかったほか、新しい記事がなかなか反映されませんでした。見に来てくださった方には、ご迷惑おかけしました。